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弓歩十零、この間教室でなにげなく弓歩になったとき、先生にとてもよいと言われた。
その時に特段頑張ったわけではないので、そういう点ではちょっとうれしい。
ただ、套路のなかの動きでは、もっと前へ行け(十零になっていない)ということと、止まらないで動き続けろと言う指摘を受けた。
ゆっくりと動くことと所々止まってしまうのとではまるっきり違う。
止まるくらいならもっと早く動けといくことだ。
たしかに、動きを確認したくてつい止まってしまうことが自分にはよくある。
これはある意味けっこうきつい課題だ。
というのは、止まって形を確かめたいというのは自分の性分から来ていると思うからだ。
自分との折り合いをつけるのか、苦手だ。

今日の練習
17:23~18:00 屋内
慢架 1回
20:33~23:02 公園
太極刀

慢架は自分なりには早く動いたつもりだったが、肝腎なことは留まらないこと、固まらないこと、途切れさせないことだろう。
単に身体の動きと言うことだけでなく、他の意味も含んでいるように感じる。
とにかく、「止まらない」を今後の課題として、しばらくは色気を出さずに地味に行こう。刀は木の軽さがやはり邪魔をするようだ。手元から回すようなところも、先端を大きくぶん回してしまっていたりする。
重さのある刀をできるだけ早めに用意して練習にのぞみたい。
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「私たちは○○さんの障害とつきあっているのではない。障害のある○○さんとつきあっているのだ。」
かつての同僚から聞いた話だ。
聞いたと言うより、説かれたというべきか。
言葉としては理解できる。
が、それ以上でもそれ以下でもない。
既に13~4年も経っているが、「分かった。なるほどそういうことか」と思えたことがなかった。

が、ここへ来て、もしかしたらと思い至る。
この一週間で、自分や母親の父に対する構えというかスタンスというかが、お互いに示し合わせたわけでも議論したわけでもないのだが、どうも微妙に変わった。
立ち位置が変わったと言うのが一番ピタリとくる。
その自覚があり、数日が過ぎたが、そこである瞬間に「!」となったのである。
今までは「父親のかかえる認知症」と関わっていたが、「認知症のある父親」とは関わっていなかったのではないか。
それが、認知症のある父を受け入れられて初めて、今までよりもこちらも穏やかに、そしてその反映か父親も比較的穏やかになってきた。
これが、あの同僚の言葉の本当の意味か?(「の」が多い)
いずれにせよ、実践を通して感じ取るしかない。

今日の練習
18:32~19:10 公園
慢架 1回
太極刀

慢架をしながら弓歩十零を身体に意識させる。
そして<水><火>をより軽くしたい。
特に、斜飛勢、横斜飛勢からの腰椎の捻りがきつい。
さてどうしたものか。
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頭が痛かった。
寝不足、その他いろいろが祟ったか。

今日の練習
9:00~12:00 教室
太極刀
質問 腰椎の動きは離れた所で誘導する。
慢架
盤手
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そして、今日も法事ででかけた。

今日の練習
18:46~19:39 公園
慢架 1回
ろう膝拗歩・倒でん猴・斜飛勢・提手上勢・白鶴亮翅・ろう膝拗歩・海底針・十字手
太極刀
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帰宅すると母親がさばさばした表情で言った。
「やめたわ」
そうだろう。そうしても構わないと、伝えるつもりで帰宅したのだ。
あれだけ苦しむなら、いっそ覚悟を決めたほうがよい。
本人は「入院させるも地獄、自宅で介護するのも地獄。同じ地獄ならこっちの方が気が楽だ。」と言っていたが、そのとおりだ。

腹をくくったせいか、また、精神病院に入った父を想像してみたせいか、今まで散々「もう限界だ、無理だ」と思ってきたことが、なんとなく許容の範囲に入っているように感じる。
今までと違ったところに立って、しばらくは父を眺めていけそうだ。

過ちて改むるに、憚ることなかれ
(間違っていたのかは分からないけれど)

今日の練習
19:10~20:00 公園
慢架 1回
太極刀
足場が持ち込まれた砂のせいでやわらかいところへ、新しい靴のクッションがかなり良い感じに効いてしまって、今一つやりにくい。
 
おまけに、またこのごろ右足首が痛む。
今日は足首前側だけでなく踵の上あたりの腱が痛むような、足首全体がこそこそ痛むような妙な感覚だった。
まあ気長にやっていくだけだ。