0 comments
0 trackbacks

朝4時過ぎに目が覚めるが、そのまま起きて練習するにはちょっと元気が足りなかったので、そのまま二度寝。
次に起きるとラジオ体操の音楽が流れていた。
その場所へ行って慢架を練習してもいいのだが、やはり気が乗らず。
昨日の足の不調が何となく残っている雰囲気だったので無理はしないことにした。
 
休暇を取っての父親の相手。
洗濯物を二人で干したり、塗り絵をしたりと、そんなこんなで午前中を過ごした。
こちらは合間に包丁を研いで気分転換。手仕事はやはり楽しい。

昼は散歩がてら外食に連れ出し、そのあとは好きにしてもらった。
ダメになった盆栽の処分をしていたようだ。

特別なことをしたわけではない。穏やかに過ごせるように、ただそれだけのためにいたようなものだが、父親にはそれがずいぶんよかったようで、機嫌は上々だった。
こちらにゆとりがあれば、こんなふうにも関われるのだが…。

今日の練習
18:10~19:14 公園
慢架 1回
八門五歩
ろう膝拗歩・倒でん猴での進退の練習
ろう膝拗歩では金・日・土の繰り返し。
倒でん猴では月・(土)・木…。(ここで土がはいるのか、今ひとつ自信がない)。
次回の教室で質問することにしよう。
 


ここ数日、一年前の陰惨な事件に関連した記事やニュース、特別番組を目にする。
「障害者はいらない。生きている価値はない。」と言う犯人の言説は、今の社会に蔓延する不寛容、一元的な価値観、自分は多数派と信じて疑わない傲慢あるいは不安といったものと結びついている気がしてならない。
事件の被害者は、実名報道もされず(それがそもそも気持ち悪いのだ)遠ざけられているように感じる。あってはならない事件は、いてはならない人々を規定することから始まってはいないか?障害者(およそ全ての人間は遠からず何らかの形で障害者になるのだが)、年寄り、子ども、貧困から抜け出せないでいる人たち、JGBTの人、難病患者、難民、外国人労働者。こう言った人たちを排除あるいは存在すら認めようとしない雰囲気がこの国にはないか?
沖縄や福島からの自主避難者への冷たい仕打ちなどにも共通するものを感じる。
だから、一年前のあの事件は、パンドラの箱を空けたような“イヤなもの”まき散らしたような後味の悪さを残しているのだろう。

あの犯人は決してた何らかの精神疾患とは思えない。むしろ偏った思想に凝り固まってしまった若者の一人にすぎない。
ふと、30年近く前の「宮﨑勤」を思い出した。どちらも社会が生み出した弱者の一形態のように思えてしまうのだ。

そして、社会が変わらない限りは、同様なことは充分起こりえる。

なんだかどんどん脱線していく。
呉式太極拳のブログなんだけど。。。。
スポンサーサイト

やや不調

曇りときどき雷雨

comment iconコメント ( 0 )

コメントの投稿






trackback iconトラックバック ( 0 )

Trackback URL:

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)